世界ではソ連が崩壊し、アメリカの一人勝ち時代。IT化とインターネットの爆発的普及により現在のようなネット社会の時代に突入した。一方、日本では90年代を「失われた10年」と表現することもある。この言葉を広めたのは作家の村上龍氏。

日本における1990年代は「失われた10年」として評されることが多い。

経済面では、1980年代末期から続いていたバブル経済が1990年~1991年に破綻。バブルの原動力となった株価と不動産価格の暴落により、まず金融機関に多額の不良債権が発生し、それをなんとかして取り戻そうと企業融資の見直しを行い貸し渋り・貸し剥しが横行した。それによって通常の不況であったら淘汰されなくてもよい企業まで倒産が大量に発生。金融機関自体も多く破綻した。その弊害として、日本の人口で2番目にあたるボリュームゾーンである団塊ジュニアが就職する時期にこの大不況が重なり、就職氷河期を迎え多くの派遣労働者やニートが発生してしまう事態に陥ってしまった。この問題は現在進行形で日本の課題となっている。

社会的には1995年に阪神大震災が発生。また同時期にオウム真理教による一連の事件(松本サリン事件、地下鉄サリン事件等)が起こり、不景気と重なり社会不安が日本を覆った。未成年による凶悪事件も90年代後半から多発し、少年法の厳罰化も行われた。

文化面では、90年代前半に音楽面やファッション面で1970年代の流行がリバイバル。特に音楽ではピチカートファイヴ、フリッパーズギター(小山田圭吾、小沢健二)ら「渋谷系」とよばれたアーティスト達によりその時期の音楽を意識した楽曲が大きな影響を与えた。また、90年代半ばにはヒップホップ も本格的に定着。一定の人気を保ちつつ現在に至っている。90年代後半は小室哲哉がプロデュースした楽曲が次々とヒットを飛ばし、ミリオン(100万枚)、ダブルミリオン(200万枚)が連発するというCDバブル時代となった。
アニメでは、1995年に放送開始された「新世紀エヴァンゲリオン」が「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」以来の社会的大ヒットを記録。これによってアニメブームが起こり、現在のアニメ量産時代に繋がっていく。
コンピュータでは、1995年にマイクロソフトから「Windows 95」がリリースされ大ヒット。同時に一般家庭にまでパソコンが普及し、90年代後半以降インターネットも浸透していった。2ちゃんねるの登場も1999年である。
テレビ業界では日本テレビが「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」「マジカル頭脳パワー!!」「進め!電波少年」「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」な どバラエティー番組を中心にヒット番組を連発し、視聴率四冠王を10年近く達成する黄金時代となった。しかし、この頃からフライングスタートやテロップの氾濫が同局を発信源として広まり、露骨な視聴率稼ぎのための姑息な手段が常態化していく。また、それまで比較的エロや暴力描写に寛容だったテレビ番組が 90年代末から次第に自主規制が強化され始める。

平成不況と社会不安の一方、ポップカルチャーでは現在の形にほぼ完成された時代となった。

そんなポップカルチャー90年代の中でゆるやかに方向転換をしながらガロもぐわんぐわんと襲ってくるバブル崩壊後の日本の文化を、ぼくらのサブカルチャーをなんとか支えて続けてくれていた。

ポケベル、ケータイ、インターネット、自分たちのコミュニケーション変化も迷走させる大きな分岐点となり、動物的に欲望をあっさりと満足させることができる「便利な社会」に向けてぐいぐい突っ走った年代。

迷走した時代もガロは休刊前に、ねこぢるを始め、三本善治、Jerry、秋山亜由子、魚喃キリコ、古屋兎丸、キクチヒロノリといった才能に溢れた作家が次々とデビュー。また沼田元氣、吉田戦車、岡崎京子、パルコ木下、花くまゆうさく、東陽片岡といった作家も登場するなど、誌面は漫画の割合が減ったものの、活気にあふれていた…。

ガロ

月刊漫画ガロ』は、1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。大学生など比較的高い年齢層の読者に支持され、漫画界の異才をあまた輩出した。初代社長兼編集長は、青林堂創業者の長井勝一(ながい かついち)。

概要

『ガロ』は1964年、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者、長井勝一により創刊された。その誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っている他、我々の路という「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあったという。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥だった。その題材・内容とスケールから連載する場所が無かった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的であった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。

当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて創刊され、手塚治虫の虫プロ商事による後発の『COM』と共に全共闘時代の大学生に強く支持されていった。商業性よりも作品を重視、オリジナリティを何より第一としたため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表出来たため、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。このことは、それまで漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。

発刊3年後の1967年には、主に『カムイ伝』を目当てにした小学館による買収および、当時の同社の中学生以上の男性向け雑誌「ボーイズライフ」との統合話が持ち上がったが、破談に終わる。

長い不遇の時代

しかし1970年代に入り、1971年に『カムイ伝』が終了すると『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどるようになる。当時編集部に在籍していた編集者であった南伸坊や渡辺和博らが一時編集長となり、面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作りを提唱(=「面白主義」)。その結果何とかサブカルチャーの総本山的な立場として一目置かれつつも、単行本の売上で糊口をしのぐという状態が続いた。この時期大手出版社から買収の話も持ち上がるが、長井はこれを拒否したという。

1980年代に入ると部数は実売3000部台にまで落ち込み、社員ですらまともに生活ができないほど経営が苦しくなった。原稿料は長井による「儲かったら支払う」という「公約」のもと、すでに支払を停止せざるを得なくなっていた。ただ、本当に生活できない漫画家には1ページに500円ほど支払うこともあった。 それでも長井社長を支持する歴代の作家陣などの精神的・経済的支援と強い継続の声により、細々ながら刊行は続く。そして読者は一部のマニア、知識者層サブカルチャーファンなどへと限られていった。その一方で「『ガロ』でのデビュー=入選」に憧れる投稿者は依然多く、部数低迷期にあってもその中から数々の有望新人を発掘していった。この時期は完全に単行本の売上によって雑誌の赤字を埋めるといういびつな体制になっており、社員編集者たちは『ガロ』以外の媒体からいかに単行本を刊行させてくれる作家を見つけるか、また実際に編集の合間に営業や倉庫の在庫出しや返品整理をするなどして、『ガロ』を支え続けた。

新世代の『ガロ』

1980年代後半に、長井が高齢と経営悪化を理由に、『ガロ』や青林堂の売却を周辺に漏らすようになる。長井周辺では、関わった作家や編集者などが、できるだけ長井と当時の編集者たちによる体制を維持できる譲渡先を探ることに奔走することになる。その中で、PCソフト開発会社のツァイトを経営する山中潤が浮上(仲介をしたのは松沢呉一)。長井らと数回の会談の結果、彼が青林堂の経営を引き継ぐこととなる。山中は1990年9月、青林堂代表取締役社長に就任(長井は会長に)。長井勝一と『ガロ』、青林堂は三位一体であると改めて確認し、そのかたちを維持させながら、慎重に会社としての経営、財務と営業、また出版社としての編集体制などを建て直すことに着手する。

1992年には長井が編集長を辞し、山中は編集長に就任。『ねこぢるうどん』や『南くんの恋人』のヒットや映画のタイアップ企画などで単行本が好調となり、また本誌の売り上げも「名作劇場」や「特集」の導入、サブカルチャー情報を大量に掲載するなどして向上させた。1993年には月刊「ガロ」創刊30周年記念作として、障害者プロレスのドキュメンタリー映画『無敵のハンディ・キャップ』を製作。また、経営母体となるツァイトでも『ガロ』の漫画をPCゲーム化、1994年には青林堂とツァイトとの共同であがた森魚監督による映画『オートバイ少女』を製作するなど、メディアミックスを積極的に展開し、原稿料も幾らかは支払われるようになった。この時期の『ガロ』はページ数もさることながら、全体に対する文章の占める割合がかなり増え、サブカルチャー情報誌としての性格が強くなっていった。

なお、当時の「事件」として、1993年、当時雑誌『SPA!』に「ゴーマニズム宣言」を連載していた小林よしのりが、「ご成婚パレードでオープンカーに乗った皇太子妃雅子が“天皇制反対ーっ”と叫びながら、オープンカーから周囲に大量の爆弾を投げつける」という漫画を描き、「SPA!」に掲載拒否されて、『ガロ』に持ち込み掲載される、という出来事があった。

内部の軋轢、そして休刊へ

順風満帆に見えた『ガロ』であったが、親会社のツァイトがPCソフトのプラットフォームがMS-DOSからWindowsへと変わる時代の変化に乗り遅れ、経営が徐々に悪化する。また1996年には創業者であり、長年『ガロ』の名物編集長で青林堂の顔でもあった長井が死去する。その後、来るべきインターネット時代を先取りし、1997年当時としては画期的であったインターネットとコミックの融合雑誌『デジタルガロ』(編集長・白取千夏雄)刊行に着手する。だが編集部内では、インターネットを『ガロ』にはそぐわないものとする守旧派と白取ら推進派が対立し、結果白取は『ガロ』副編集長のままツァイトへ移籍して『デジタルガロ』の編集にあたるという、変則的な事態を迎えることとなった。

この先見的な試みは、山中社長が強引に搬入部数を10万部まで増やしたため結果的に失敗(最終的な実売は15000~18000部)に終わり、大赤字を出すこととなった。しばらくして山中が体調を崩したため、山中と旧知の仲であるコンピュータ業界の先輩・福井源が社長代行となったが、元々山中体制に不満を抱えていた手塚能理子(当時青林堂取締役)以下の社員が申し合わせ、事前連絡も無いまま保管してあった作家の原稿を持ち去り、一斉に退社するという事件が発生する。同時に彼らはマスコミや取引先を通じ各方面へ「青林堂は乗っ取られた、版元として終わった」との声明を広く流布した。マスコミはその内容を詳細に検証する事なく報道を行なったため、青林堂と経営母体であるツァイトには大きな風評被害が及んだ。

事件以後の『ガロ』

結果それがきっかけとなりツァイトは倒産し、『ガロ』は休刊に追い込まれた。その後、幾度か経営者や編集者を変えつつ復刊・休刊を繰り返し、大和堂体制となりオンデマンド版(いわゆるネット上での通販)として販売形態を変更したが2002年12月発売の1号が刊行されただけに終わり、以降は事実上の廃刊状態となっている。

また1997年に退社した手塚ら元社員達は、新会社「青林工藝舎」を設立して『ガロ』の後継を称し、執筆陣は旧ガロの漫画家や新人などによる隔月刊漫画雑誌『AX』を発行している。手塚らの退社当時の違法性も疑われる行為は、結局青林堂とツァイトの混乱の中、それ以上追及されることなくうやむやとなった。

2010年9月30日、青林堂(大和堂)はiPad用の電子書籍アプリとして『ガロ Ver2.0』の販売を開始したが、内容は同人誌系のロリコンものが中心で、元の『ガロ』の路線とは全く異なるものであった。商業的にも成功には程遠い結果に終わった。

『ガロ』はその先見性と独自性で一時代を画した、単なる漫画雑誌ではない足跡を出版界に遺した。また、独自の作家性の強い漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれ、『ガロ』出身でもない作家でも「あの作家はガロ系」などと表現されることが多い。また、彼等の作風は、海外のオルタナティヴ・コミックの作家たちとも親和性が高い。

略歴

  • 1964年(昭和39年)7月24日 - 『月刊漫画ガロ』創刊。部数は8000部。白土三平が4号目より『カムイ伝』の連載開始。
  • 1966年 - 『カムイ伝』が人気を呼び、発行部数が延びる(80000部)。
  • 1967年 - (ライバル誌『COM』創刊)
  • 1971年 - 『カムイ伝』連載終了。
  • 1980年 - 次第に『ガロ』の人気が低迷するが、一方で有力新人を次々と発掘して行く。
  • 1990年 - 青林堂からツァイトに経営譲渡。ツァイト社長の山中潤が青林堂社長に就任。
  • 1992年 - 長井が1月号から編集・発行人を退き会長に就任。山中が編集長となる。
  • 1993年 - 宮城県塩竈市で「ガロとマンガとマンガ文化」開催。
  • 1994年 - 「月刊ガロ創刊30周年記念パーティー」。
    • ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に30周年記念製作映画『オートバイ少女』が招待され、新宿シネマアルゴにて一般公開される。
  • 1995年 - 長井、日本漫画家協会賞選考委員特別賞受賞。
  • 1996年 - 長井死去。享年74。
  • 1997年 - 2月、インターネット・マガジン『デジタルガロ』発刊。『ガロ』本誌8月号で一時休刊(7月7日付で全社員が退社したため)。
    • 青林堂全社員退社が引金となり親会社の株式会社ツァイトが倒産。
  • 1997年 - 福井源が青林堂社長に就任し1998年1月号より復刊するが、1998年9月号で再び休刊。
  • 2000年 - 1月号より復刊。
  • 2001年 - 6月号まで月刊、8月号より隔月刊化。
  • 2002年 - 4月号まで隔月刊、次号の7月号より季刊化。
  • 2002年 - 12月発売号より、オンデマンド出版に移行するも1号で終わる。
  • 2010年 - 9月30日、iPad用の電子書籍アプリ『ガロ Ver2.0』発刊。

主な執筆陣と代表作

  • 安部慎一 - 『やさしい人』『美代子阿佐ヶ谷気分』
  • 池上遼一
  • 内田春菊 - 『南くんの恋人』
  • 蛭子能収
  • 勝又進 - 『勝又進作品集』
  • 楠勝平 - 『茎』『彩雪に舞う』
  • 佐々木マキ
  • 白土三平 - 『カムイ伝』
  • 杉浦日向子 - 『合葬』『二つ枕』
  • 鈴木翁二 - 『オートバイ少女』
  • 滝田ゆう - 『寺島町奇譚』
  • つげ義春 - 『ねじ式』(『ガロ増刊・つげ義春特集』)
  • 永島慎二 - 『フーテン』『漫画家残酷物語』
  • 根本敬 - 『天然』『タケオの世界』
  • 林静一 - 『赤色エレジー』
  • 古川益三 - 『紫の伝説』
  • ますむらひろし - 『ヨネザアド物語』
  • みうらじゅん - 『単になんぎなうし』『アイデン・アンド・ティティ』
  • 水木しげる - 『鬼太郎夜話』『星をつかみそこねる男』
  • 村野守美 - 『さんささかやの』『だめ鬼』
  • 矢口高雄
  • やまだ紫 - 『性悪猫』『しんきらり』

その他の執筆陣

五十音順。

  • あがた森魚
  • 赤瀬川原平
  • 秋山亜由子
  • 東元
  • 安彦麻理絵
  • 荒木経惟(写真)
  • 安西水丸
  • 石ノ森章太郎
  • 泉晴紀
  • 泉昌之
  • 糸井重里
  • 岩本久則
  • 大越孝太郎
  • 奥平イラ(奥平衣良)
  • 鴨沢祐仁
  • 唐沢商会(唐沢俊一+唐沢なをき)
  • 唐沢なをき
  • 川崎ゆきお
  • 菅野修
  • Q.B.B.
  • 久住卓也
  • 久住昌之

青林堂

株式会社青林堂(せいりんどう)は、東京都渋谷区に本社を置く出版社である。

概要

かつて漫画誌『ガロ』を出版し、白土三平、水木しげる、つげ義春、滝田ゆうなど個性的な漫画家に自由な表現の場を与え、全共闘時代の大学生に強く支持され一世を風靡した。

1960年代の『ガロ』は、白土の『カムイ伝』と水木の『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、つげ忠男、滝田ゆう、鈴木翁二、安部慎一、古川益三、池上遼一、林静一、勝又進、つりたくにこ、佐々木マキ、楠勝平、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた。

新人発掘にも力を入れていた当時の青林堂には、毎日のように作品が郵送で届き、2~3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れ、後にハードボイルド作家として活躍する矢作俊彦が、ダディ・グーズのペンネームで作品を持ち込んだこともあったという。当時の編集部では実質的に編集を任されていた高野慎三(権藤晋)と長井の二人で新人を発掘していった。高野は特に『ガロ』に発表された”既成のマンガのワクを乗り越え、新しいマンガの創造を”と謳った「白土テーゼ」を信奉し、つげ義春以降のマンガ表現に大いなる関心を寄せていた。

1970年の『やなぎ屋主人』を最後に休筆に入ったつげ義春に加え、1971年の『カムイ伝』の終了とともに『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどり、1980年代には経営難を経験する。多くの作家や読者の支援により低迷しながらも会社は存続したが、1990年代に入り創業者である長井勝一の高齢と経営難からPCソフト開発会社の株式会社ツァイトの経営者である山中潤が経営を引き継ぐ。

その後、『ねこぢるうどん』や『南くんの恋人』のヒットや映画のタイアップ企画などによる単行本の好調もあったが、親会社のツァイトが傾き、1997年外部より福井源が肩代わりをする形でツァイト社長に就任した。同時に長井勝一とゆかりのあった編集員は全て退社し『ガロ』も休刊となった。その後編集長に長戸雅之を招き1998年1月にいったん復刊したが1998年9月に『ガロ』は再び休刊した。ツァイト社の社長を退いた後も青林堂は名目上は山中社長のままであったが、ツァイト社倒産後売却され大和堂の社長、蟹江幹彦が社長となり、『ガロ』は2000年1月号に復刊するが2001年なかばより隔月刊、2002年に季刊となるが実質発行の無いまま現在に至っている。 なお長井勝一時代の編集員が移行して作ったのが「青林工藝舎」である。現在この両者の間に提携や資本関係は無い。

歴史

  • 1962年(昭和37年) 長井勝一により神田神保町に設立。
  • 1964年(昭和39年)7月24日、『月刊漫画ガロ』創刊。
  • 1972年(昭和47年)高野慎三退社、北冬書房を設立。南伸坊が入社し後に編集長に。
  • 1990年 ツァイトに経営譲渡。ツァイト社長の山中潤が社長に就任。
  • 1991年 ガロ増刊として『REMIX (雑誌)』を創刊(発行はアウトバーン)。
  • 1992年 山中が編集長となり、長井が会長に就任。
  • 1994年 『月刊ガロ』創刊30周年記念パーティー。
  • 1995年 長井が、日本漫画協会選考委員特別賞を受賞。
  • 1996年 長井死去。享年74。
  • 1997年 ガロ8月号を出した後編集部がそっくり退社し休刊
  • 1998年 ガロ1月号より復刊 9月号までで再度休刊
  • 2000年 ガロ1月号より復刊 半ばに隔月刊化
  • 2001年 ガロ実質的に休刊状態となる

ツァイト

株式会社ツァイト(Zeit)は、かつて存在した日本のソフトウェアメーカー。本社は東京都渋谷区初台にあった。主なソフトは、パソコン用グラフィックソフトウェア『Z's STAFF』シリーズ、ワープロソフト『Z's WORD JG』、アドベンチャーゲーム『ねじ式』などがある。創業者は、山中潤。

沿革

  • 1984年、マジカルズーで出会ったつげ義春ファン3人でソフトハウス『ツァイト』を創立、山中潤が代表取締役に就任する。日本のグラフィックソフトの先駆けとなるZ'sSTAFFシリーズを開発、販売した。Z'sSTAFFは当時のPC-9800シリーズの標準的なグラフィックソフトのひとつであった。
  • 1989年、つげ義春の『ねじ式』をゲーム化。
  • 1990年、『月刊漫画ガロ』の版元である青林堂を子会社化、様々な企画を立ち上げサブカルチャー誌の色を強めるなど、低迷していたガロを一時的に持ち直すことに成功した。

しかし、Windowsへの移行が上手く行かず、一方のガロはインターネットの融合を進めようとした「デジタルガロ」が赤字に終わる。この時期、山中の体調不良もあって、青林堂の内紛と分裂を招き、1997年7月31日に2度目の不渡り手形を出して事業停止し、事実上倒産した。

Z's(ずぃーず)シリーズが主力製品だったが、このグラフィックツールは、『ねじ式』ゲーム化のために自製したものが元で、最初から会社もゲームを作るつもりで作ったものであった。最初の、アスキーを発売元としたグラフィックツールFunnyでは、開発時のサンプルデータとして『ねじ式』の絵が入っていたが、発売の際に諸事情の調整がつかなかったか、外されたものということである。

主なソフト

  • Z'sSTAFF KID98(PC-9800シリーズ)
  • Z'sSTAFF PRO-68K(X68000シリーズ)
  • Z's WORD JG(PC-9800シリーズ)
  • SuperKid(Windows)
  • Z's Triphony DIGITAL CRAFT(PC-9800、X68000)
    • 名作浪漫文庫シリーズ
  • ねじ式(PC-9800、X68000)
  • アソコの幸福(PC-9800、ひさうちみちお原作)

長井 勝一

長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 - 1996年1月5日)は、日本の編集者、実業家である。出版社、青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

白土三平や水木しげるといった有名作家から、つげ義春や花輪和一といった異才までを輩出していった名物編集長として知られている。

1921年(大正10年)、宮城県塩竈市生まれ。1926年に東京・南千住に転居し、1939年(昭和14年)に早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)採鉱冶金部を卒業した。

学校卒業後は満州に渡り、満州鉱山や満州航空に勤務した。終戦直前の1945年(昭和20年)に内地へ戻り、終戦後は義兄の古書店を手伝う様になった。そんな中、義兄が簡易製本の漫画を売りさばく姿を見た長井は、漫画の出版を志すようになる。

しばらくして「大和書店」を開業し赤本漫画の出版を手掛けるようになる。結核を患った後、特価本卸「足立文庫」を姉と始めるも再び結核を患う。数年後貸本向け出版社「日本漫画社」を設立し、白土三平の漫画の出版中心に活動する。その後半年間浅草でバーの経営をしたのち、更に青林堂の前身となる「三洋社」を友人と設立し、白土三平や水木しげるの作品を世に出してヒットさせた。しかし2年後に三度結核を再発させ解散する。その際に、片肺の切除手術をした影響で声がかすれてしまったが、この声が長井のトレードマークの一つとなってしまう。

1960年代なかばには、貸本漫画が衰退し貸本漫画家の活躍の場が減っていた。「彼らが何の制約もなく活躍出来る場を自分が提供しなければ」と、病気療養中にも関わらず「青林堂」を設立。長井の妻である香田明子が実務を担当しその活動を始めた。白土の作品を中心に単行本を出版し、1964年に白土の連載『カムイ伝』のために『月刊漫画ガロ』を創刊。当初は8千部であったが、漫画マニアはもちろん、全共闘の大学生を中心に人気が出て、最盛期には8万部を超えた。1971年に『カムイ伝』が終了した後は部数が徐々に低迷するが、長井の座右の銘「継続は力なり」をモットーに、新人発掘の場として出版は細々と続けられた。

1990年になり、PCソフト開発会社「ツァイト」に経営を譲渡。その後編集長、社長職を退き会長へ就任。1995年(平成7年)、第24回日本漫画家協会賞選考委員特別賞を受賞した。1996年に阿佐ヶ谷の自宅にて肺炎で死去。享年74。

1999年1月に故郷塩竈市のふれあいエスプ塩竈内に「長井勝一漫画美術館」が開設され、長井の経歴や『ガロ』の原稿などが展示されている。

エピソード

  • 俳優の宇野重吉に似ているので街中でよく間違えられてサインを求められ、そのまま宇野の名をサインした。「夢を壊しちゃ悪いから」というのが理由であった。
  • 水木しげるの漫画の脇役として出てくる、垂れ目の頬骨の出た、小柄で痩せている中年男性のキャラクターは長井をモデルとしている。
  • 『ガロ』と虫プロ商事発行の後発のマニア向け漫画誌『COM』とはライバル関係であったが、長井と手塚治虫は仲が良かった。
  • 南京大虐殺否定論を、1990年代初頭から展開していた。
  • 長井の妻香田明子は、「青林工芸舎(青林工藝舎とは別組織)」を主催し、古い漫画の復刻や、ポストカード発売活動を行っている。
  • NHKの連続テレビ小説 『ゲゲゲの女房』(2010年)劇中の人物で、俳優・村上弘明が演じた編集者、深沢洋一は、長井をモデルとしている。
  • フォークシンガーの友部正人は楽曲「長井さん」で長井の死について歌っている。

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